■ホリエモン〜「変わらないもの」を求め続けた子ども
球界の地殻変動に一役買い、政界にまで進出して「時代の寵児」とまで言われたホリエモン。
「3年後に世界一」を目指そうと勢いづいていた矢先、いきなり足元をすくわれて孤独な独房で頭を冷やすこととなった。この急上昇そして急転直下のドラマは、様々な波紋を経済のみならず人の心に巻き起こした。
彼は何を示すインデックスパーソン(指標となる人)であったのか。
時代背景と家庭環境の両側面から迫ってみたい。
小泉首相とホリエモンは、ともに改革者として世にイメージされた。
が、戦後の官の仕組みの改革に本気で乗り出したのは土光氏であった(81〜86)。
しかし、時代は味方せず、角栄の目指した「公共事業型工業立国」の官の仕組みは生き続ける。
87年にビジョンを持たない竹下内閣が登場すると、マネーは角栄の亡霊を追うかのように土地に殺到した。
マネー(経済)がモラルを失って10年後の97年、殺人まで起きた山一事件、自殺者まで出した野村・第一勧銀の総会屋事件など戦後の日本を率いてきた大企業の不祥事が噴出し、「企業犯罪」が問われた。
この時、日本の背骨(モラル=社会規範)がついにポッキリと折れたのだった。
おりしも97年に登場したオン・ザ・エッジ。
経済からモラルが失われて10年の社会に育っていた若き社長は、『金を持っているやつが偉い』と堂々と標榜した。
アノミー(無規範)化した日本社会から「モラル」(父性:CP)と「愛情」(母性:NP)が失われ、残った唯一の時代の価値基準がマネーしかないことを感じ取っていたのかもしれない。
98年に閣議決定された「規制緩和」の施策は、その社長堀江貴文氏にとっては渡りに船であった。
法規制のタガが緩んでいく中、法律"すれすれ(on the edge)"の中を突き進み、「勝ち組」の一つの頂点に上り詰めた。CPとNPの規制がない中、CがAを利用して暴走したと言えるかもしれない。
いずれにせよホリエモンは、マネーのためには手段を選ばなくなった時代の申し子であった。
世がもてはやすということは、その個人の価値観と時代の価値観が合致しているということである。
では、そもそもなぜ彼がそのような価値観を持つに至ったのか。そこを探る必要がある。
ある週刊誌に、堀江氏が子どもの頃は小さくて細かったことが書かれていた。
前回のスーザンの例でも書いたが、愛情不足の子どもが示すサインの一つだ。
親は共働きで暖かい家庭というものを経験していないことは堀江氏自身が本に書いている。
父親は「子を谷底に突き落とす」とテレビでも言っているし、母親もたとえ百点を取っても褒めなかったという。
強力なトレーナーが生まれながらに2人いたような環境の中、「少年A」が強力に躾けられたように、幼い頃からトレーニングに追われたことが推察された。
サイト上の「堀江貴文日記」から気になったコメントを転載してみよう。
『覆水盆にかえらず、といいますが、諸行無常の世の中、ずっと同じ人と一緒に仕事ができるわけありません。だれしもいつかは別れが来るのです。残酷ですが、それが現実です』
『短期で頑張って成功体験をひとつでもいいから作ることです。(中略)その間は、周りの人間関係すら崩壊させてもいいという覚悟で、取り組むこと。(中略)成功体験を一度でもつむと、快感が忘れられなくなるので、もう一度体験したくて、結果として持続するようです』
『変わらないものを探しだす事が結局、私の人生の最終目標なのかもしれません。今のところありそうにないですが』
彼の言う『変わらないもの』とは一体なんであろうか。
自分が生きていくために、この世で信じることができる『変わらないもの』 ―それは、「無償の親の愛」ではないだろうか。自分は成長し変化していく。浮き沈みもあるだろう。だが、自分がどんなに変化し、どんな状態にあっても親の自分に対する愛だけは『変わらない』。
しかし、彼はその『変わらないもの』をもらうことができなかった。
この世に孤独に漂白する彼は、自分で『変わらないもの』を探さざるを得なかった。
そして、とりあえず見つけた『変わらないもの』―それが「金」だったのではないだろうか。
堀江日記の最初のコメントは、親と自分との関係を示唆しているように私には思える。
求めても得られなかった親との関係は『覆水盆にかえらず』、所詮この世は『諸行無常』と割り切って思いを封印するしかなかった。
もっとも血の濃い親子という人間関係でさえもが『諸行無常』の中にあるのならば、自分とこの世のすべての関係は無常。自分とは、あってなきがごとき存在になってしまう。
求めても得られない孤独と諦観の中で、『成功体験』は自分が認められるという『快感』を与えてくれた。
自分の存在が人に認めてもらえる快感は、それまで親から「肯定的ストローク」(その人の存在を認める働きかけ)を得られず「ストローク飢餓」に陥っていたとすれば、『周りの人間関係すら崩壊させても』欲しいと思えたのではないだろうか。
ストロークに飢えた人間はゲームを仕掛ける。
親から愛を得られなかった少年Aが破滅的な「殺人ゲーム」を仕掛けたように、
ホリエモンは「マネーゲーム」に突っ走った。
彼にとって、経営ははなから二の次であり自分を認めてもらうこと、そのために会社はあったのだろう。
その名も「Livedoor」−まさに、彼が"生きていくための入り口"だった。
そこを通じて「金」と「認知」を得ることが、彼の自転車操業的「生」そのものとなった。
そして、「金」によって世界一になる。その時彼は、世界中から「認知」される。
彼は賭けたのかもしれない。
その時、『変わらないもの』がこの手に入るだろうかと。
しかし、心の底では気づいていたはずだ。
親の無償の愛情に代わるものは、『今のところありそうにない』ことを―。
心の空洞は、お金やモノでは決して埋められない。
埋められないから、さらに大きなもので埋めようとする。
あと3年で世界一になると言っていた彼は、世界を相手にしなければならないほど心の空洞が広がり、深刻な飢餓状態になっていたのかもしれない。
ひもじければなんでもしてしまうのが人間だ。
ついには法を犯し、
「少年A」の場合は「警察」が、
「堀江貴文」の場合は「特捜」が対せざるを得なかった。
しかしそれは、ある意味ゲームに勝利したといえるのかもしれない。
親から得られなかった自分ときちんと向き合って欲しいという欲求を社会に向け、ついにはCPの象徴であるような警察や特捜を自分に対峙させることができたのであるから。
「一体、僕は誰なんだ!」
―独房の中から、そういう子どもの叫びが聞こえる気がする。
彼が特に若い無党派層から支持されたのは、親から無償の愛情を得られない若者の気持ちを代弁していたからではないだろうか。
そこには、愛に餓え「セカチュー」が現象にまでなってしまうことと共通の土壌があるのではないか。
彼の背後には、広漠たる心の砂漠が透けて見えてくる気がする。
かわいそうな子ども達が自分のよりどころを探して泣いているのが見える気がする。
「私はどこから来てどこへ行くのか」
―人は誰しも、そういう根源的不安の只中に生きている。
人間にとっての始点は親。
そこから人生がスタートする。
始まりがなければ、終わりも見えない。
CPを得た彼に、いまだ与えられていないのはNP。
今こそ親の出番なのだ。
ご両親は、ただ受入れ抱きしめてあげてほしい。
そして、こう言って欲しい。
「おまえ(あなた)は、私たちの子どもだ(よ)」と。
そこで彼は、初めて始点に立つことができる。
そう、親が本当の「Livedoor」(生きるための入り口)なのだ。
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