■ゼロトレランスで人は救えない
前回、いじめや暴力に対しては不寛容(ゼロトレランス)で対応せよ、という論調が多かったことを示した。
簡単に言えば、家庭でも学校でもしつけができないから、保育園や幼稚園の頃からしつけをして、そこからはみ出したいじめや暴力の加害者に対しては厳罰で臨めと言うことだ。
それに対して、既に家も社会も監獄化していて息苦しいからイライラとなって荒れているわけで、それで暴れると罰を受けるという構図では、人間が去勢されていくであろうと書いた。
これは、土日毎に家族カウンセリングで家庭という現場を歩いている私の危機的実感である。
日本でゼロトレランスを推進する側の代表者は「君を守りたい―いじめゼロを実現した公立中学校の秘密」を書かれた中島博行弁護士であろう。氏は、いじめは犯罪だから情けをかける必要はない。目に見える形で処分することがいじめ撲滅につながるという考えだ。
心理学を学ぶものとして、また現場の実態を知るものとして首肯できない部分もあるので皆様にもお考えいただければと思う。
先ず、ゼロ・トレランス(zero・tolerance)がどのように広まっていったのかを見てみたい。
「es(エス)」という映画をご存じだろうか。
スタンフォード大学のジンバルド教授が行った監獄実験(1971)を基に作られた映画だ。
彼はボランティアで募った優良な学生を刑務所のような施設に集め、看守役(11人)と受刑者役(10人)のグループに分け、「刑務官には全権力を与え、囚人は完全に無力な状態に置いた。実際の刑務所と同様、権力の巨大な格差を設定した」。
やがて、実験のはずが本当の虐待や辱め、暴力が始まり、そのリアリティになんとジンバルド自身がのめり込んだため、囚人役のカウンセリングをしていた牧師が危険を察知。その状況を家族へ連絡し、家族達が弁護士を連れて中止を申し入れるまで実験は継続された。
実験終了から10年もの間、ジンバルドは被験者をカウンセリングし続けることになった。
そこまでしなくても良い実験から彼が得た結論は、
「良質のリンゴが腐ったのは、リンゴを入れる樽に問題があったからだ。普通の善良な米国人でも、環境やシステム次第で悪の執行者となりうる」ということ。
彼は、「人間は環境の動物(状況の囚人)である」ことを言いたいがためだけに21人の人生を陥れたのである。
そのジンバルドが行ったもう一つの実験が、「ブロークンウィンドウ(割れ窓)」の実験である。
彼は、普通の車とフロントガラスの割れた車をそれぞれ住宅街に放置した。
すると、1週間後、普通の車は無事だったが、窓の割れた車は部品がゴソッと盗まれていた。
同時期72年、ニューアークで「警察官の徒歩パトロール強化」が実施され、犯罪学者ケリング博士は,警察官の徒歩パトロールは地域住民に安心感を与え、住民が警察へ親近感を増す効果があることに気がついた。この結果とジンバルドの実験を基にケリングが提唱したのが「ブロークンウィンドウ理論」である。
それは、ビルの窓ガラスが割られたまま放置されていると、その建物は管理されていないと認識され、さらに窓ガラスが割られる。そうやって荒れたビル放置されていると、地域が管理されていないと認識されて、地域全体が荒れていくという理屈である。
この理論を基に「ゼロ・トレランス(不寛容)」政策を掲げてニューヨークの治安を回復したのがジュリアーニ市長である。ニューヨーク名物とまで言われた地下鉄の落書きの徹底消去を行い、それにより地下鉄の治安を回復させたことが有名だ。
日本には、例によってその"形"が入ってきた。
今年6/1から違法駐車に適用されたと言えばイメージが湧くだろう。
配達だろうが、トイレだろうが、情状酌量無し、問答無用で「違法即罰」というやり方である。
さて、私なりに心理実験の結果を解釈すると次のようになる。
放置されてる =誰も咎めない
誰かがやってる→自分がやってもいい
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管理されている =やれば咎められる(罰)
誰もやっていない→自分がやったらモラルにもとる(恥) |
このように罰(外)と恥(内)の両面効果でヒトの行動が抑制されることを実験は示した。
そして、ジュリアーニが行った落書き消去は、罰を持って落書きを規制するのではなく、根気よく落書きを消し続け環境美化に努めた結果、汚すことをためらうという人の心に働きかけたのだと思う。
つまり、
人の行動を「罰」によって「外的に規制」するのではなく、
環境を整えることによって「恥」に訴え「内的に規制」したのである。
ところが、「罪と罰」の文化だからだろうか、それら一連の施策に外罰的イメージの「ゼロ・トレランス(不寛容)」と名付けたことが間違いだった。脅しをかけて外から行動を強制するやり方がまかり通るようになった。
この考え方の本質的な問題点は、違法者=悪、いじめ=悪、という極めて単純な2分法に基づく勧善懲悪思想にある。これでは、結局誰も救われないからだ。
例を挙げよう。
いじめを行っていた女子高生A子。
ある時、ムシャクシャして級友の靴をカミソリでズタズタに引き裂き、その級友は転校した。いじめを受けた友人の心労を察すれば、A子の行った行為は許されるものではない(ゼロ・トレランスならば、この時点で厳罰だ)。
しかし、A子は母親からの支配を受けていた。
暴力や虐待の支配ではない。働く母親が自分の手足とさせるべく躾や強制を行い、物心つく頃には母親は逆らうことのできない神になっていた。自分の気持ちを受け止めてもらえず意のままに動かされるA子は、生きながら操り人形になっていた。その苦しさがいじめという形で出ていたのである。
では、母親が悪いのか?
母親はごく当たり前の躾をしているつもりだった。しかし、母親の心の中には自己認知(ストローク)飢餓があった。自分の母親(祖母)から認められなかったため、実母から得られなかった自己認知を他者から得ようとしたのである。だから、頼まれ事は断らない、何でもかんでも自ら引き受け、自分だけでは足りずに子供たちまでもを自分の手足にしようとしたのである。
それらは無意識の行動であるため、子どもが自分を人間扱いしてほしいという訴えは母に届かず、子どもは絶望とあきらめの中、自棄になっていたのである。そういう意味で、原因は我が子に愛情を与えなかった母親にあるが、母親がそうなった原因は祖母にある。
では、祖母が悪いのか?
祖母は男尊女卑の風潮の中価値を認めてもらえず、親からの愛情をもらえずに育ったため、子どもをどう愛していいのかわからない人だった。
では、祖母の親が悪いのか? …… そう、このように問題は連鎖しているのである。
A子は母親に愛してほしいと泣き、母親は祖母に愛してほしいと泣いているのである。
皆、自分の中に、あるがままの自分を認めてほしいと願っている子ども(インナーチャイルド)を抱えた健気な人間たちなのだ。
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では、どう解決するか。
救わなくてはいけないのはA子。
そのためには、母親が救われなければならない。
私は、A子、母親からそれぞれ個別に話を聴き、それぞれの気持ちを受け止める。
次にA子の気持ちを母親に伝える中で、母親は自分に原因があったとハッと気づくと大泣きされた。
次にその原因の奥にある自分の心の空洞に気づかなければならない。
場合によっては、メールカウンセリングで自分と向き合う作業を行う。そして、最後に自分で自分を救ってもらう。
祖母がいない場合、あるいは求めても得られない場合でも、大人になった自分がインナーチャイルドを愛し、癒すことができるのである。
例えば、
「自分はペットのようにかわいがられたが心がなかった」と言う母親に、小さい頃にしたかったことは何かを聞いた。
「お人形さん遊びがしたかった」という。
そのお人形が今でも売っているというので買って遊んでみてください、と言った。人生も後半に入っているその方は、半信半疑で買いに行った。
家に帰り、ゆっくりと包みを開ける。
そこには、あのお人形がいた。
そうして、箱から大事に取り出し、そっと手に取ってみた。
すると…、
涙がボロボロボロボロこぼれてきた…。
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自分の気持ちを知った母親は、A子の気持ちがわかるようになった。
自分の気持ちを受け止めてもらったA子は、人を配慮することができるようになった。
そして、心から被害者のために祈り、自分ができることで社会に貢献しようと生きている。
ゼロ・トレランス(不寛容)で、人が救えますか?
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