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 HOME>メディア>「PAC21」20017.11掲載記事

■岡野嘉宏先生追悼〜LASの思い出

9月2日、岡野嘉宏先生が逝去されました。
ご無理をされる先生でしたから、いつも御身大切にと案じてはいましたが…もう一度セミナーにお伺いしたいと思っていた矢先のことでしたので、驚きとともに悔いも残りました。とても多くの人をお救いになった方だと思います。大好きな沖縄の地で最期を迎えられてよかったと思います。ほんとうにゆっくりと安らかにお眠りください。
今回は予定を変更して、岡野先生の思い出を書くことで追悼とさせていただきます。

私の心理学の歴史は、1998年岡野先生の「TA基礎コース」と「家族相談士」の養成講座を受講したことに始まります。家族相談士は、その前年に杉溪一言先生の影響を受けて受講することを決めていました。
TA基礎コースは、組織改革のために私を本社に呼んでくれた上司が研修のために派遣してくれました。
私は現在、世代間連鎖と人生脚本の観点からご家族及び個人の問題にアプローチしていますが、その柱となる「家族療法(システムズアプローチ)」と「交流分析」に、この年に出逢ったのです。

そして、翌99年、産業カウンセラー養成講座で、傾聴スキルの恩師岡本敏子先生に出逢います。
その後03年にシニア産業カウンセラーの資格を取得するまで、岡本先生には逐語訓練のお世話になりました。私のカウンセリングスキルの原点は岡本先生にあります(その岡本先生も逝去されました)。

98年は、プライベートでカウンセリングの勉強が始まり、会社では組織改革プロジェクトが始まり、公私ともに多忙を極めていく最初の年となりました。しかも、パワハラをする上司を8タイプほど分類していますが、中でも最凶のサイボーグ型上司に出逢い、強烈なパワハラに遭っていました。
弱っていく私を救ってくれたのが、養成講座の仲間に気持ちを吐露したこと。
そして、世俗から隔絶されたねぶかわゲストハウスで、岡野先生の「ライフアドベンチャーセミナー(LAS)」を受けたことです。

そこでの体験が息子への謝罪と、パワハラ上司と対決する決意につながっていきました。 対決の結果、上司が外に出されるという前代未聞の結末を迎え、私がその後4年にわたってプロジェクトを率いることになるという大きな大きな転機となります。そのプロジェクトについて書いた本が「あきらめの壁をぶち破った人々」(03年日本経済新聞社)という本ですが、パワハラ上司との対決がなければ、その後の私の人生は大きく違っていたものになっていたでしょう。

私は、その間も逐語訓練でカウンセリングスキルを磨きつつ交流分析を初めとする心理学の勉強を続け、退職して2年後の05年に、少年Aから酒鬼薔薇が生まれた深層心理を分析した「あなたの子どもを加害者にしないために」を出版させていただきました。

1作目の本がシステムズアプローチの観点で組織の問題を見、カウンセリングスキルでプロジェクトを導いたことを書いたものであり、2作目の本はシステムズアプローチの観点で交流分析を用いて家庭の問題を解き明かしたものです。
そして、この2作目が私の礎となり、私は訪問カウンセリングをするようになりました。現在は、毎月10件ほどご家庭を訪問しており、他はメール及び電話カウンセリングの日々です…。

さて、私の来し方を簡単に紹介したのは他でもありません。LASが大きな影響を私に与えたことが分かると思うからです。どのような体験をしたのか、「あきらめの壁をぶち破った人々」から抜粋します。(↓島津というのが私です)



<以下、抜粋>----------------------------------------------------------

二日目の夜。希望者がエンプティチェアをやることになった。
エンプティチェアとは、自分の向かいに空の椅子を置き、そこに自分の話したい相手が座っていると想定して"対話"するのである。相手が話す番になると、自分が向かいの椅子に座り直し、相手の気持ちになって話をすることにより、その時の相手の気持ちを共感的に理解する方法の一つである。

その夜は、三〇そこそこの青年が名乗りを上げた。社会的には立派な成功者であったが、「なにかをしていないと落ち着かない」「ゆっくりすることができない」という。交流分析でいうところの「努力せよ」というドライバー(強迫観念)が常に働いているのだ。
その青年はエンプティチェアに自分の父親を座らせ、自分は幼い頃の自分になった。そして、先生の指導に従って椅子を移りながら、幼い自分と父親になって"会話"をした。

その結果分かったことは、彼は「父親から無条件に愛されたかった」ということだった。
しかし、……その父親はもう亡くなっていない。

その後、一二名ほどいた参加者の中から青年の父親にもっとも似ていると思う人が選ばれ、先生の指示で、小さい頃にやりたかったことを始めた。大きな青年と細い年配の男性と。肩車はさすがにできなかったが、相撲をとっていた。泣きながらとっていた。

セッション後、みんなで彼に一言言って終わりにすることになった。
なにか言葉をかけ、そして握手をし、……島津はそれらを冷静にじっと眺めていた。だんだんと近づいてくる。
最後が島津のところだった。
自分よりも背の高い青年が、目の前に立った。


「申しわけないけど、今だけ、私の息子になってくれる?」

島津は声をかけた。
落ち着いた静かな声だったが、思わぬ言葉にそこにいるみんなが顔を上げ注目した。
青年がどういう顔をしていたかよく分からない。島津には、ただ微かにうなずいたように見えた。いや、あるいはそう見えただけだったかもしれない。
島津は一歩、二歩踏み出し、その青年のがっしりした身体をしっかりと抱きしめた。
手の平を通して、その青年の肉付きのよい背中から、暖かい体温が島津の中へ流れ込んできた。

その瞬間、島津はわんわん泣き出していた。
島津は、泣き出した自分に驚いていた。そして抑えようとした。

〈なにか言わなければいけない……〉

なんとか冷静になろうとした。
が、そうしようとすればするほど、それを跳ね除けるように嗚咽が後から後からこみ上げてくる。
どこからこの感情が湧き出してくるのか。
感情がこんこんと溢れ、それは涙と嗚咽になってほとばしり出、止めどがなかった。
ただ、肩を震わせて泣きじゃくっていた。
二人が互いをしっかりと抱きとめた形で、一つになって泣いていた。

どのくらい時間が経っただろう……。
そして、どのくらい泣いていたのだろう。
別の暖かい手が、島津の背中を優しく包んだ。
いつの間にか、周囲に人垣ができているようだった。
いろんな手が、島津たちを優しくさすっていた。
島津は、すーっと気持ちが静まってくるのが分かった。

〈あぁ、これが人から力をもらうということか……〉

ようやく島津は、むせびながらも途切れ途切れに話を始めた。

「厳しく、躾けてしまって申しわけない……。つい、自分の跡取り、長男という意識があって、厳しくしてしまった。でも、三歳は三歳だよなぁ……、男も女もないよなぁ……」

島津は、幼い頃の自分の息子に話しかけていた。
伸び伸び育てた上の娘と異なり、長男に対しては厳しかった。
怒る時に手は出さないが頭突きをした。すると、なにかいやなことがあると自分の頭を壁にゴンゴンぶつけ始めたのだ。息子が学んだのは、自分を傷つけて感情を吐き出すという術であった。

やがて、スーパーなどで大人が向こうから近づいてくるだけで身構え、ときには睨みつけるようになった。大人は自分に危害を加えるものと思っていた。
妻からそういう様子を聞き、島津はショックとともに反省した。
"しつけ"という名の下に、自分の枠に子供を押し込めようとする"押し付け"を俺はやっていた。
どんな人間でも、一方的な押し付けに遭うと病気になる。
島津は青年の姿に自分の息子の将来を見た。

哀れでならなかった。
こんなにも父親に縛られ、こんなにも窮屈な生き方をしなければならないのか。
しかも、父親が亡くなった後までも。

子どもに心の平安を作れない親など、親ではない! 

可哀相でしょうがなかった。島津は、嗚咽をこらえつつ、途切れ途切れに続けた。

「でも、これだけは分かって欲しい。本当に愛していたんだ。君のお父さんも深く愛していたと思う。
でも、間違っていた。申しわけない。
……それに、君も、もう十分頑張った。もう十分だよ。もうこれ以上頑張る必要はない。
頑張らなくても、今の君であるだけで、お父さんは本当に愛しているから……」

島津は青年を借りて息子に謝罪し、懺悔したのだ。
そして、その青年は父親の言葉を聞いた。

その後、島津は呆けたようにしばらくボーっと横になりながら、自分が癒されたのを感じていた。
その研修から帰ってから、島津の息子に対する態度が変化した。
すると、息子も呼応するように変化したのである。

〈こんな俺を許してくれる〉。

息子の変化に、子供の親への深い愛情を島津は感じた。
そして、子は本当に親の鏡なのだと実感したのであった。



<その後、逐語訓練をしているロールプレイで次のような気づきを得ます>-----------


「あれは、上司に痛めつけられている自分に対する、いたわりと哀れみの涙だったのかもしれませんねぇ」

カウンセラーに語り終えた時、島津はふと付け加えた。
自分でも思いがけなかったが、あの号泣のもう一つの意味。たった今、島津はそれに気がついたのだ。

あの号泣は、自分に対する『グリーフワーク(嘆きの儀式)』でもあったのだ。
岩山(←パワハラ上司です)にボロボロにされ、それでも耐えている"自分に対する"癒しの涙だったのだ。自分の息子、あの青年、そして自分―この絶対権力の前にボロ雑巾のようになった三つの魂が、あの青年を抱きとめた瞬間にシンクロしたのだ。

(あぁ、俺は止めどないくらいに本当は耐えていたんだ……〉

島津は、心をなくし、操られるマリオネットのようになっていた自分の本当の気持ちに深く気がついた。 電車に乗って帰宅する道すがら、島津の心に兆すものがあった。


<以上、「あきらめの壁をぶち破った人々」より抜粋終わり>--------------------------




長くなってすみません。
ただ、岡野先生がなされていたエンプティチェアの貴重な記録であり、それがどういうものでどのような効果があるのかがよく分かると思ったこと。
そして、カウンセラーに話を聞いてもらうことでどういう気づきを得るのかということがよく分かると思いましたので長めに抜粋しました。


…9月24日。
私はお別れ会の会場アルカディア市ヶ谷の富士の間に置かれた先生の遺影を見つめていました。
いつもの優しげな笑顔でした。

沖縄でのワークショップの初日、脳幹出血で倒れられた先生は即死していておかしくない出血量だったそうです。しかし、日本各地からエールが送られてくる中、そして、沖縄の方々にご家族を含めて大変お世話になる中で、岡野先生は1ヶ月半も闘われました。

「お礼のことば」に奥様である岡野八重子様は次のように書かれています。

『私たち家族を沖縄に呼び寄せてくれ、沖縄の人と自然に和むことを教えてくれました。
 病院という特別な場所ではありましたが一つの家族であることのありがたさを教えてくれました』

『ストロークを素直に頂く快さも教えてもらいました。その沖縄の素晴らしさを知らせるために私たち家族を呼び寄せてくれたのではないかと思う日々です。』

反逆児としての前半生を生きた岡野先生が到達したところ…それは、奥様が書かれているとおり。

1,家族であることのありがたさ
2,人と自然に和むこと
3,ストロークを素直に頂くこと


つまり、家族を、そして家族を支える人々と自然を大切にし、自分の気持ちを大事にして素直に生きよということではないでしょうか。
先生は亡くなられるまでの1ヶ月半の間に、最後の力を振り絞って波乱の人生を支えてくれたご家族に感謝の意を捧げられたのだなぁと感じると同時に、岡野先生がその人生をかけて到達されてこと−何が大切なのかを教えていただいたと思います。

ありがとうございました。
心からご冥福をお祈り申し上げますと同時に、今後のご家族の皆様に幸多からんことを祈り申し上げます。





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