■保存版!モラハラ相談の手引き(3)
前回「手引き(2)」を書きましたが、同じ時期、「独女通信」にモラハラに関する私のインタビューが掲載されました。「独女通信」とは、30代独身女性の微妙な心理を取り上げる、他社にはないユニークな女性向けニュースサイトで、ライブドアの人気コンテンツです。
丁度「PAC21」の発行日の3月15日に「モラハラ男と独女の泥沼恋愛」のケースが掲載されて大反響を呼び、その後編の形で22日に掲載されています。これまで被害者の無力化のメカニズムや、ハラッサーとはどういう人間かについてみてきましたが、今回は掲載されたコメントに肉付けする形で、不幸な出逢いを避けるために留意すること他を書いて締めくくりとしましょう。『』は独女通信に掲載された私のコメントを引用しています。
ハラッサーとは『他人を道具にする人間』のことです。
『自分ひとりでは立てない(自律できない)ので、道具としての誰かが必要』であり、『自律できない人は皆、心に怒りを抱えています。この怒りのはけ口となる他人が必要』となります。
つまり、ハラッサーは自分を支え、かつ怒りのはけ口として配偶者を必要とすると言って良いでしょう。
人がハラッサーになる理由は前回書いたとおり。
一言で言えば親の愛情不足ですから、『モラハラ男かどうかを見抜く方法の一つに、「誕生日の思い出があるか」というのがあります。親に愛されて育っていれば、誕生日にまつわる素敵な記憶を持っているものです』−これはどういうことでしょうか。
人生とは、生まれてから死に至るまでの経過=プロセスそのものが人生です。
人は、そのスタートとゴール、即ちどこから来てどこへ行くのかが不安ですから、親が自分の生い立ちについて、いろいろと嬉しそうにエピソードを語ってくれるのは嬉しいものなのです。自分が愛されていることを確認でき、自信を持って人生を歩いていくことができるからです。
しかし、次のような場合、人は心に傷を負います。
いずれもディスカウントであり、あるがままの自分を愛されていないと感じるからです。
1,「生まれたとき、女の子だったのでがっかりした」「男の子がほしかった」
2,「もういらないから、名前を○○と付けた」「二番目だから○○と名付けた」
3,「おまえは、○○の生まれ変わりだと思った」
4,「おまえは、養子(養女)に出されるところだった」
5,「おまえは、大病して死ぬところだった」
6,誕生日を祝われたことがない
1は、自分が自分であること(性別)にがっかりされているわけです。
2は、名は自分です。動物のような名、ありきたりの名、もっとひどい名前に愛を感じません。
3は、では本来の自分は愛されていないのか、ということになります。
4は、そこにどのような事情があれモノ扱い。親は自分のことを愛していないのかと子は思います。
5は、その時の親の対応いかんによっては、やはり自分をモノのように思う場合があります。
6は、自分が生まれたこと=自分の存在が、親にとって喜びではないと、子は感じます。
そして、極めつけは次の言葉です。
7,「お前は、橋の下から拾ってきたんだ」
怒りを抱えている人のいるご家庭で、どれほどこの言葉を聞いてきたでしょうか。
あぁ、ここでもやはりこの言葉が出たか−そう、思うくらいです。数々、この言葉を聞いてきました…。
上の6つは、それでも両親の下に生まれているのを認めています。
しかし「橋の下〜」というこの言葉は親から切り離しています。
上の6つもひどいものですが、この言葉は一線を画しています。
似たような言葉に「お前なんか強姦されて生まれてきたんだ」とか「お前は誰の子かわかりゃしない」というのがあります。自分の出自が分からず、人生の始まりを奪われてしまったわけですから人生を歩くことができません。不安の中を心許なく漂流することになるのです。
人はこの背負わされたものの重みに一人で耐えることができません。
誰かに一緒に分け持ってもらわなければつぶれてしまいそうです。
しかし、この言葉を背負わせることができるとすればわが子しかいないのです。
そして、ある時あるきっかけをつかんでこの言葉を言います。
たとえば笑いながら冗談めかして、たとえば寛いでいるときに不意を突くように、たとえば大喧嘩した売り言葉に買い言葉の中で…状況は様々ですが、結局言ってしまいます。
そして、それを聞かされたわが子も、親と同じ不安と不信の中を歩くことになるわけです。
こうして愛情飢餓と怒りの連鎖が受け継がれていくことになります。
もしこの言葉を投げられた人がいらっしゃれば、この言葉は親が子を憎んでいったのではなく、むしろ親が子に甘えてしまったとお考えください。傷ついた親が子におんぶしてしまったのです。
そして、もうおんぶする必要はありません。
さて、そういう言葉をかけられてもハラッサーにならない人もいます。
『成長過程に親以外からでも、誰かから愛された経験があれば、他人を道具にするようなことはないはずです』−たとえば、近所にいつも道ばたでひなたぼっこしているお祖母ちゃんがいて、幼き頃に毎日そこに行ってはあれこれと話し、うんうんと聞いてくれたとか、草むらに寝ころんで大地が自分を認めてくれているのを感じたとか…どこかで丸ごとの自分を受け止めてもらった経験があれば、そこが、漂流していた心許ない自分のアンカーポイント(係留点)となります。
そこには暖かい芽が植えられ、やがて人に対する信頼の樹が育っていきます。
記憶の底に沈んで忘れてしまっていることでも、ほんの一瞬のふれあいでも、わずか一言でもいいのです。
自分が丸ごと受け止めてもらえた−そういう経験があれば、愛にあふれた人になることができます。
人の力は偉大だと思わずにはいられません。
このように、その人の出自に関わる話や親との関わりのエピソードを聞くことは、その人が怒りを溜め込んでいる人かどうかを知る上でとても参考になります。
また、自分が丸ごと受け止められた経験があるかどうか聞くことも、その人に愛情が育っているかどうかを知る参考になります。
逆に言えば、自分がどうだったのかと過去を振り返ることもとても大切なのです。
というのも、『モラハラ男に惹かれる女性は、相手の中に自分と同じような孤独を見て、彼を救うことが自分を救うことにつながると感じている(自己投影している)』場合があるからです。
ハラッサーはいわば親という監獄にとらわれている囚人です。
今や、親の支配を受けている人はたくさんいます。
その囚人同士が町でばったり出逢ったとき、相手が囚人であることが互いに直感的に分かり、相手の中に自分の孤独や不安の姿を(投影して)見てしまいます。
そして、その相手を救いたくなってしまうのです。
しかしそれは相手のための行為ではなく、自分のためです。
結局、相手は自分のための道具であって、ここに成立するのは互いを互いの道具としあう関係=共依存の関係です。共依存の中で成長はなく、いずれ破綻するか、その子供に問題が起こってきます。
ですから、『このような男性に惹かれる傾向があるなら、自分が親にどう育てられてきたか。
恋人を作る前にまず、親子関係の棚卸しをすることです。
自分が変われば、選ぶ男の人も変わってくる。
心が自律すれば今よりもっと、素敵な人と出会えるはずです』−つまり、棚卸しをする中で自分の中に棲む親(インナーペアレント)に気づき、その支配から離脱すること。
言い換えれば、親から内在化された「禁止令」や「ドライバー」に気づき、それから解放されること。
それは取りも直さず、自分の「人生脚本」に気づき、それを書き換えることになります。
そのようにして自分自身が自律できれば、自律した人々と出逢うようになります。
とはいえ、若いうちに自分の棚卸しをするなどなかなかできないことです。
ただ、出逢う相手は自分の鏡、生まれた子供は親の鏡−そういう目を常に持ち、何か問題が起こったら来し方を振り返ってみてください。
必ず自分の中に解答があるはずです。
そして、本当の意味での自分の人生を歩いていきましょう。
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