■なぜ、無差別殺人が起きるのか?
私がPAC21に寄稿させていただいた最初の記事のタイトルは「あなたの子どもを加害者にしないために」(05年11月)。再び犠牲を出したくないという思いで書いた本が出て3年後の6月8日−秋葉原で無情な通り魔殺人が起きた。
私は容疑者が携帯サイトに書き込んだ文を読み無念さを禁じ得なかった。
酒鬼薔薇事件の構造と殆ど同じではないか…。
拙著を読まれて変わったというご家族からも嬉しいお便りを頂いている。
気づくことができれば変われたのに、犠牲者を出さずにすんだのに−被害にあった方々の無念を思うと、ますますそういう思いが湧く。
そこで、これまでの家族カウンセリングでの体験もふまえて、子どもがどのように追い詰めれて殺意を抱くのか概要を見てみたい。
一見普通に生活している人の中に潜む「虚無」を私はたくさん見てきた。
明確な死の意識はなくても、どこか、「いつ死んでもいい」「死ねないから生きているだけ」という空気を本人が無意識のうちに持っていらっしゃる方が多くいた。そして、究極の孤独にいる人が自殺、もしくは殺意を抱くことを、これまでの家族カウンセリングの経験から私は実感している。
それらの人に共通するのは、「あるがままの自分が受け止めてもらった経験がない」ということである。
親が自分が認められることに精一杯で子供のことを省みない、
親が自分の価値観を子供に押しつける、
親が子供を自分の感情のはけ口に使っている、あるいは、
親が子供にしがみつく、
親が子供を乗っ取ろうとする…
パターンは様々あれど、子供の側から見て共通するのは、自分の気持ちを受け止めてもらったことがない、あるいは言える状況にはなかった、ということだ。形はいろいろあれど、本質的には親から見捨てられた子ども達は、荒れた人生になる。
「気持ち」とは「自分」そのものである。
その気持ちを聴いてもらえなかったということは、親の前では自分は存在していないということだ。
親は目の前にいるのに、その親に自分の本当の姿は見えないのだ。
少年A(酒鬼薔薇)が感じたように、自分は「透明人間」なのである。
これほど苦しいことはない。
いるのにいないのだ。
人は有意義な時間を過ごそうとして「時間の構造化」をするが、透明人間にとっては、引きこもり、儀礼、社交、活動、ゲームなど(親交は望むべくもない)、どのように時間を構造化しようとしても、その全てが空しいのである。
「無視」とは、ディスカウントする(人として認めない)行為である。
ディスカウントの最たる行為が殺人だが、無視は精神的殺人といってもよい行為なのだ。
自分が透明人間になってしまうと、自分が何をどのようにしていようと人が気づいてくれない。
このどうしようもない孤独を、私は「あなたの子どもを加害者にしないために」の中で「絶対零度の孤独」と呼んだ。
「絶対零度の孤独」の中にいる人は、気持ちを受け止めてもらえず「心のコップ」が満杯である苦しさ。そして、目の前にいるのに認知してもらえない苦しさ。片や爆発、片や飢餓−この2つの苦しさを抱えて生きることになる。
それが、なにか息苦しいことの本質だ。
しかし、親はそのことに気づかない。
なぜなら、親自身が自らを道具として生きているからだ。
そういう親は無意識のうちに子も道具にしてしまう。
自らも気持ちのままに生きていないために、子の気持ちを汲み取ることに思いが及ばない。
どころか、自らが従っている価値観に子どもを閉じこめていこうとする。
こうして親が手を出すことによって、「お前が自分でやってはいけない」という禁止令を発している。
最近は自画像を描いたときに自分の手を描き忘れる子供が増えているが、それは当に絵の通り、自分の手がもがれているのである。その子どもの背景には、あれこれと手を出す親がいる。
さらには、好みの色、好きな服、聞くべき音楽、部屋の配置に至るまで指図する親がいる。と書くと驚かれるかもしれないが、食べ物やテレビ、学校や就職に関して口を出すのは当たり前と思っている親も多いことだろう。
それら全てが、子どもにとっては
「自分で判断するな」
「個性を持つな」
「自我を成長させるな」
という禁止令になっている。
それら禁止令の総体で言いたいことは、
「自律するな」
「あるがままの自分であるな」
という2つの究極の命令である。
裏を返せば、
「人間であるな」
「親の操り人形になれ」
ということである。
このような親元で子どもは、次のように人間にとって最も苛酷な生を生きなければならない。
1,親からディスカウントされ続けて、セルフエスティーム(自尊心)を持てない。
2,禁止令によって自我の発達を抑制されて、セルフエフィカシー(自己効力感、自信)を持てない。
3,「心のコップ」が一杯で、ちょっとしたことでキレてしまう。
4,「心のコップ」が一杯だから気持ちの受け止め合いができず、友人を作れない。感情を受け取ることから逃れたいためにアニメなど二次元の世界に入っていく。
5,「心のコップ」が一杯で重たければ、集中力も続かず体も重たい。やる気も失い怠惰になる。これを自分の努力ができない性格だと勘違いして「悪いのは自分」と、自分を責める。
6,上記の全ては、気持ちの受け止め手がいなければ誰でもなり得るのだが、それを自分の「性格」と勘違いし、自分に対して「嫌われ者」などの謝った自己概念(自分に対するレッテル貼り)を持ってしまう。
子どもとはどこまでいっても親に愛されたい存在だ。
だから、親を悪く思うことができない。
また、親は自分のためを思ってやってくれていると信じたい。
結局、親に愛情はあり、自分のためを思ってやってくれているのに、その愛情を感じられない自分がおかしい、その期待に応えられない自分がダメ、と自分を責めるのである。
こうして子どもは、「4つの人生の基本的立場」の中で、「I,m not OK.」の上に立った人生脚本を歩き始めることになる。
・自分はダメだと思う 「I,m not OK. You,re OK.」
・虚無的な 「I,m not OK. You,re not OK.」
そして、自己否定の人生脚本の上で自己概念は疑心暗鬼を生み、たとえば「読心」(勝手に人の気持ちを推測すること)などの「自動思考」(考え方の癖)によってますますマイナスの自己概念を強化していく。
なぜなら、一端できた自己概念は、自分の思考や行動を規定する枠組みの役割を果たし、全ての現象をその枠組みの中で解釈しようとするからだ。言い換えれば、『自己概念は、それに合うものしか受け入れないという選択効果を持つ』とも言える。これを「自己概念の循環効果」と言う。
この日常の循環の中で、自分に起こる出来事の全てで子どもは自己否定を味わうことになり、世の中から追い詰められていくことになる。
一方で、ディスカウントされた人は必ず怒りを持つ。
透明人間であるから受け止める人もいない。
はけ口のない怒りが究極に達していくと、苦しさの余りどこかで感情を遮断する。
感じていると苦しくて仕方がないからだ。
そして、妙に冷静な中で「刺す」とか「殺す」とか「消す」などの言葉が浮かんでくるのだ。
この時、自分もしくは周囲にその殺意が向けられる。
ハラッサーが自分の親への怒りを妻子にぶつけるように、本当は親に向けられる怒りであり殺意なのに、その代償としての対象であるから対象が特定できないのである。
結局、いろいろな出来事を通じて自分を否定してきた世間に、その殺意が向けられることになる。
そういうギリギリの状態で10年も生きていればクタクタになる。
疲れ果てて不登校になったり、非行などの逃避が始まったりする。
すると、親は使えなくなった道具を捨てるみたいに簡単に見捨てるのだ。
ここに絶望が広がり、虚無の状況にいたる。
ここに至ると生きる気力を無くしてしまう。
あとは、死を待つだけの日々となる。
しかし、生まれてきて、この世に何の痕跡も残さず、透明人間のまま死ぬわけにはいかない。
こうして、極限のストローク飢餓に陥った人間はストロークを求めてゲームを仕掛けるのである。
既に自分が精神的に殺されているので、人を殺すことも何とも思っていない…。
いかがだろうか。
私は事件直前の家庭にいくつも接してきた。
ごく普通の家庭で犯罪予備軍が生み出されている。
尚、この基本構造は「あなたの子どもを加害者にしないために」に詳細に書いてある。
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