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■北大東京同窓会会報「FRONTIER」No28 投稿記事「青年の危機、中年の危機」より

受験〜宅浪  波乱万丈の高校時代(8/17大分合同新聞に掲載)、友人から「お前は北大が合ってるんじゃないの」と薦められた。高3になって受験そっちのけで生徒会活動に突っ込んでいた私は、改めて調べてみた。なんと道内外の比率が半々。「いろんな人間に会えそうだ」私の行動選択基準がうずいた。「目指すは恵迪寮!」(笑)―私の腹は決まった。

 受験で札幌に降り立ったときの列車の風情、街行く女性が色白で皆美人に見えて、啄木の「札幌は大なる田舎なり…」を実感した。雪国の生活への憧れ、「Boys,be ambitious!」の熱い物語。広大な大地に広大なキャンパス…ロマンをかき立てるこれらの舞台装置が私を魅了し、「しめやかな恋」を目指して私は宅浪に突入した。

北大東京同窓会会報「FRONTIER」
恵迪寮〜旅立ち  大学は、♪オンボロボロロ〜(石狩挽歌)の自治寮生活からスタートした。漆喰は落ちる、床はほげる、犬は走り回る、生れ落ちたばかりの子猫がうじゃうじゃ転がっている、ザンバラ髪の援団が夜を徹してストームをしかける…。
 書棚にボトルしか並んでない部屋からセクトの名残まで、どの5人部屋も個性豊かで、関西弁や名古屋弁、秋田弁や青森弁まで寮で学んだ。私も背中まで髪を伸ばして、赤フンパレードで噴水にて向うずねを強打。酒と寒さで痛みはなく、血を流しながらそのまま歩いて病院に行き5針縫われた。

 寮が楽しかったせいか、5月病に襲われたのは秋だった。
 何をしていいのか。何をすべきなのか。…そもそも自分は一体何者なのか?夜10時頃になるといたたまれなくなってふらっと街に出た。バイト代は飲み代。とある店のカウンターに腰を下ろす。すると自分の時間が流れ始める…
 そういう日々が続いた翌年の春。米軍下がりのズタ袋に寝袋と着替え少々、本を1冊入れて私は旅立った。
 
北海道大学東京同窓会会報
FRONTIER No28
2005.12.25発行

発行人
中山 悠

編集人
網谷 隆司郎
鳥山 英雄
斎藤 直子
日本放浪  駅の裏で寝、軒を借りて雨を数え、一日海を眺め、延々と歩き‥。金がなくなったら住み込みでバイト。北海道の牧場で跡取りになれと言われたり、信州で米俵を担いだり、福岡で工事現場の監督助手をしたり…。

 貯まったら車任せのヒッチハイク旅。コンボイのトラックで一挙に列島を縦断もすれば、数百mをわざわざ乗せてくれた人もいた。ギンギラギンの暴走族、果てはバイクまでもが乗せてくれ、「お天道様とおまんまはついて回る。日本も捨てたもんじゃない」と人情を実感した日々。

京都駅に着いた夕刻、手持ちは500円。一食べたら終わりだなと思いつつ不安はない。足元に落ちていたバイトニュースの切れ端に、近くの旅館が住み込み募集の記事。運よく膳運びにありついた。

カナダ、オーストラリア、ドイツ、一人旅の外人にもいろいろと出遭った。インドの人には、「あなたみたいな人は一度インドに来るといいよ」…。

季節は巡って翌年2月、私は八重山諸島へ来ていた。礼文島で燃えるようなひと夏の恋をして、ここで3人目の出逢いがあった。そして竹富島で別れた日―「帰ろう」。
私は1年間の自分探しの旅に終止符を打った。

同棲&学問 復学した私は寮を出てアパートへ。「100冊の本より、1日の旅」と思っていたが蓄積欲が猛然と湧き、毎月映画15本、本15冊という三昧の日々。

そこへ「隣に越してきました!」と高卒で勤めながらフォークも歌っているという女の子が挨拶回りに来た。そのうち「お兄ちゃん」と遊びに来るようになり…やがて「神田川」の世界へ。彼女は卒業と同時に結婚して私の妻となった。

同期より2年遅れて移行した学科は農径。理類の中で唯一の文系。文と理の狭間で生きてきた私にはピッタリだった。実際、農業という経済弱者の観点から世の中を学んだことはとても意義があった。
刺激を受けた私は、社会学、民俗学、人類学、物理学の分野にまで学びを進めていった。その中で身につけたものの一つがパラダイム史観である。その時代や社会を規定するものの考え方の枠組みがどのようにできあがるのか、それに取り組んだ卒論は、その後の人生の基礎となり後に本につながった。奔放な研究を容認していただいた太田原高昭先生には深く感謝している。

卒業の頃、悪友仲間が賭けをした。「あいつが就職するかしないか」。が、皆の期待を見事に裏切り、私は既に結婚している26歳の年食った“新人”として社会へ飛び出すことになる。

会社合併 日産化学に入社して配属された石油化学部門は協和発酵と合併することになり、9年間にわたって組織文化の破壊→地均し→新しい文化の導入を体験した。
私は人事厚生制度の導入、教育の新規構築という任務を遂行し、実績が買われて、以降組織の建て直しやレール敷きの道を歩んだ。

私が高卒主体の工場の人間から信頼を得たのは、上を見ずに現場と向き合う姿勢にあった。その姿勢はマイナーな農業と対峙する農径ゼミの中で強化されたものだ。
そして、修卒主体の研究所の人間に信頼されたのは、理系の議論の仕方がよくわかっていたからだ。最近ファシリテーションという言葉が認知され始めたが、私は20年前からファシリテーターだった。

半生の棚卸し 39歳。私は模索の中にいた。高校で「四十不惑」を知った時から、「よし、40歳になったら惑おう」と思っていた。
その年の暮れから私は、会社から帰って15分でも2時間でも、土日もつぶして2ヵ月、憑かれたように書き続けた。本1冊分の内容は、あたかも卒論の続きだった。維新以降の時代の価値観、社会システム、それらが現代に及ぼす影響や社会問題、両親が自分に押し付けてきた価値観、自分と家族の関係、今後の社会変化の予測、必要とされる人間像等々…自分の来し方、行く末を見つめる壮大な棚卸しとなった。

そして、「感情(気持ち)」を大事にする必要があることを知った。

組織改革
自己投資
退職

出版
「あきらめの壁をぶち破った人々」
40歳。カウンセリングを学び始めた私は協和発酵中枢の医薬事業において組織改革のプロジェクトに抜擢され、公私共に多忙を極めた。
苛烈なパワハラを克服し、敵対する組織を結びつけ、気持ちを受け止めることにより抵抗勢力を味方に変え、逃げ腰の改革メンバーのやる気に火をつけ…、私はカウンセリングの効果を次々と実証していった。そして、4年に渡る「ITを用いたBPR」は成功裡に終わった。

プロジェクト終了後の02年。私はビッグサイトのチェンジリーダーフォーラムの会場で、このままでは日本は元気になれないと痛切な危機感を持った。ここに借り物ではないミドルアップの日本型の方法論がある。千に3つもないという成功事例。「書くのは自分しかいない」―私は退職の決意をして執筆に取り掛かった。

相次ぐ難敵、組織の壁、心の壁をブレイクしていく実話に日本経済新聞社が感動して下さり、「実用企業小説」という新分野まで立ち上げる思い入れで、退職した03年の暮、『あきらめの壁をぶち破った人々』が世に出た。
『読む「プロジェクトX」か、それとも日経版「島耕作」か』と毎日フレッシャーズで評され、最近もAll Aboutで取り上げられた。その後、「組織改革の語り部」として企業や自治体での講演やワークショップも行うようになった。

出版
「あなたの子どもを加害者にしないために」
一方で、結婚生活と会社生活が同時にスタートした私は、近年言われ始めたワーク・ライフバランスをずっとテーマとしていた。
「39歳の総括」で書いた企業社会に見捨てられた家庭と地域の問題―当時騒がれた「酒鬼薔薇事件」はその象徴だった。

が、Aが社会復帰するまでの7年間「心の闇」が解明されなかったため、専門家さえも彼を先天異常と言い始めていることに痛烈な危機感を持った。Aを特殊と決めつけることによってこの問題はけりをつけられ、私たちは自分の生きる姿勢を見直すチャンスを失ってしまう。

「書くのは自分しかいない」―家族相談士としてAの親子関係を読み解いていた私は決意し、今年の8月に出版したのが『あなたの子どもを加害者にしないために』である。広告も出さない本だったが、産経新聞や夕刊フジがインタビュー記事として大きく取り上げて下さった。(詳細は私のサイトご参照)

「アイデンティティクライシス」と「ゴーギャンコンプレックス」の乗り越え方 2作品共に共通しているのは、「組織(会社、家庭)における個人の自律」の問題である。
自律は会社を社会を強くする。
共依存は組織を弱くするだけでなく犯罪に走らせる。
自律するためには学び直しが必要だ。

私は、19歳から25歳の青年期のアイデンティティ形成期、
そして39歳から45歳のゴーギャンコンプレックスと言われる中年の危機の時期に学び直しをした。

それぞれの7年間に試行錯誤しつつ学んだことが私の重層的な基盤となっている。

北大は、これからも迷える青年を見守る大らかな、物語を紡げる大学であってほしいと思う。ありがとうございました。

(2005.12)

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