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■プロフィール(第1クォーター)

生まれ〜大学
1958(s33)〔宇和島〕:四国-愛媛県は宇和島に生る
1964(s39- 6歳)〔鹿屋〕:鹿児島県鹿屋市立西原小学校
1968(s43-10歳)〔佐伯〕:大分県佐伯市立佐伯東小学校
1970(s45-12歳)〔佐伯〕:大分県佐伯市立鶴谷中学校
1973(s48-15歳)〔佐伯〕:大分県立佐伯鶴城高校
1976(s51-18歳)〔高山〕:自宅浪人
1977(s52-19歳)〔札幌〕:北海道大学理類
1978(s53-20歳)〔全国〕:休学(放浪の旅)
1979(s54-21歳)〔札幌〕:復学
1980(s55-22歳)〔札幌〕:北海道大学農学部農業経済学科
*第1クォーター?
 26歳で就職しました(超落第生)ので、その四半世紀のことを言ってます。まぁ、春の時代。(とはいえ、第5クォーターくらいまで生きたいんですけどね♪)
1958(s33)〔宇和島〕  生後半年ほどで佐伯に渡り、2歳頃まで住みました。
 馬車が通り、蹄鉄を打つ鍛冶屋がありました。人と自然のつながりが見える街でした。
 その後、裏庭が浜辺の海が素晴らしくきれいな内之浦へ。
 当時その港町でテレビがあったのは、たったの2軒。
 近所の子供達が縁側に鈴なり。草履を脱いであがり込み、砂だらけの畳の上で 「3匹の子豚 ブーフーウー」 に夢中。
 
 3歳の私は、L字カーブの階段を上りきった高台の公園にいました。
 階段の両側はスロープ。遊び仲間の女の子と男の子に、
「このスロープを三輪車で降りる」 
 と宣言しました。
 加速がつく三輪車。
 カーブでハンドルを切ることが出来ない!!

 …4mほどの高さでしょうか。
 コンクリートの深い側溝に向かって頭から落ちていく光景が、スローモーションのように残っています。ガードレールなどなかったんですね(^^;)。

 三輪車の上に落ちたから大怪我をせずにすんだのでしょう。
 あの大きく見えた溝からどのように出たのか。三輪車を引きづり大声で泣きながら歩いて帰ったことを覚えています。
 
 内之浦を出る日、母は翌日に初打ち上げとなるロケットを見たそうです。

 内之浦2年の後は大根占も1年ほどで、鹿屋へ。

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1964(s39- 6歳)〔鹿屋〕  豊かな自然!大地をピンクに染めるレンゲ草の絨毯。
 山村暮鳥の詩 「風景-純銀もざいく」 そのままの 『いちめんのなのはな』。
 上田敏名訳の大好きなブラウニングの詩そのままの、野アザミの咲く草いきれの大地。

 昆虫が「死生観」を教えてくれました。
「俺は今、ここにいる」で書いた原風景もここでのイメージです。
「よろずや」や「配給所」(米配給時代の名残)もあった昔懐かしい町です。

友人宅に上がり込み、「冒険王」や「少年画報」に夢中で、ふと気がつけば薄暮の夕刻。私一人ぽつんと…(^^;)。そういう子供を放っておいてくれるおおらかな近所でした。今でも、もう一人の母親のように思っています。

 小学生から中学生まで縦社会で集団で遊んだ最後の年代に近いのではないだろうか。自分の兄弟の他に大勢の兄弟がいたようなもの。いろいろなことは、親からではなく、このお兄ちゃんたちから教わっていました。

 校庭にあった、大きな2本の栴檀の木は、まだあるか。 

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時は春
日は朝
朝は七時
片岡に露みちて
揚雲雀なのりいで
蝸牛枝に這ひ
神、そらに知ろしめす
すべて世は事もなし

 -ブラウニング-

*朝(あした)
*揚雲雀(あげひばり)
*蝸牛(かたつむり)

1968(s43-10歳)〔佐伯〕 5年生の夏に転校。当時、地区にケンポカイカンがあって、しのびこんでは卓球三昧の日々。ほんと、他に何やってたんだろう。

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1970(s45-12歳)〔佐伯〕  「サインはV」の影響かバレーボール部に(まだ9人制)。当時は身体も小さく貢献できませんでした。
 英語弁論大会や学年選抜メンバーでやった演劇「ベニスの商人」も思い出です(バサーニオ役でした)。

 番匠川の上流で、夏休みのうち35日泳いだと思えるくらい(笑)、よく泳ぎました。
 帰りに立ち寄るカキ氷屋が楽しみで。山のような氷に、好きなシロップをかけてくれます。3種類くらいかけてもらってたんじゃないか。

 この頃父親とは犬猿の極地。
 部活で夜8時頃帰って食べ始めても、父親が帰宅すると箸をおいて自室に。すきっ腹より顔を合わせたくない…それほど、でした。家庭内暴力にいたる子供の気持ち、分かるところがあります。

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1973(s48-15歳)〔佐伯〕  高1の秋、岐阜の高山に転勤になることを小耳に挟み、
「しめた!これで親から離れられる」。
 勝手に残留を決め下宿探し。しかし、この時の騒動で親の愛情を再認識。

 下宿ではなく間借りに決まり、友人のお父さんがやっていた食堂「まるまん」で食事。
 シベリヤ抑留の話を毎晩のように聞かせてくれました。おじさん、息子に聞かせたかったんだろうなぁ。
 
 下宿探しと同時に新聞配達開始(学校には内緒)。
 貯めた金で高2の夏自転車旅行。四国南部〜六甲〜京都〜金沢〜富山〜高山のコース1050km。2週間かけて高山へ。
 先生と“親友”になったり、失恋したり、まぁ盛り沢山の多感な16歳でした。

 十分に遊んで悔いはなく、せめてこの1年は勉強するぞ、と決意を固め高3突入。が、どういうわけか高校始まって以来の前代未聞の2年3年合同の生徒会で文化委員長の大役。
 決意はもろくも翻り(^^;)、下宿は機関紙作りの場に。広報が負けたと言ったくらい機関紙を出しまくり、当時完成したばかりの文化会館も使わせていただき大成功。
 全校一丸となって邁進した喧騒、躍動、一体感の喜びが、仕掛け屋としての私のキャリアアンカーとなっているようです。

(翌年、『あの頃の文化論争が懐かしい』と先生がコメントされてる機関紙が後輩から送られてきました)

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1976(s51-18歳)〔高山〕  大学は、北大一本。なぜなら、道内半分、道外半分。国立の中で最もいろんな地域から人が来るから(笑)。いろんな人と出会えること、というのは選択基準の(大きな)一つです。
 まだ1期校、2期校のあった時代なので、ロマンを求めて挑戦してくる面白い奴がかなりいました。

 受験で初めて訪れた札幌は、電車の木の昇降口に雪がこびりつき、街行く女性は色白で皆美人に見え、啄木の言葉 『札幌は大なる田舎なり、‥しめやかなる恋の多くありそうな都なり』 を“実感”しました。
 

 それにうつつを抜かしていたわけではないのですが、サクラチル。これだけ勉強してなければね〜(^^;)。
 高山にて自宅浪人。 重くのしかかる家族のプレッシャーをひしひし。
「ラ講(ラジオ講座)」とごん太(犬)にはお世話になりました。

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1977(s52-19歳)〔札幌〕  いろんな人との出会いを求めるなら「恵迪寮」。
 今は縮小されて開拓の村かどこかに移設されている ♪オンボロ、ボロロ〜(石狩挽歌調に)の寮が健在?でした。
 漆喰は落ちる、床はほげる、犬は走り回る、生れ落ちたばかりの子猫がうじゃうじゃ転がっている、ザンバラ髪の援団がストームをしかける‥。(私も背中までありました ^^;)

 赤フンパレードで、噴水に片足突っ込み向うずねを強打。
 酒と寒さで痛みはなく、血を流しながらそのまま歩いて病院に行き、5針縫われました。

 秋から、5月病(^^;)。
 何をしていいのかわからないだけではなく、「そもそも自分は一体何者なのか?」
…夜10時を過ぎるといたたまれずにフラッと飲み歩き。網走からバイト帰りに飲み屋に直行してボトルを置いたことも(未成年はお酒飲んじゃダメだぞ ^^;)。かくして、夜ごと夜はふけていく…。

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1978(s53-20歳)〔全国〕:休学(放浪の旅)  翌年の春、米軍下がりのズタ袋に寝袋と着替え少々、本1冊入れて、ついに自分探しの旅へ。
 友人に見送られて支笏湖に行った時は、まさかそれから1年続こうとは‥。
 駅の裏で寝、軒を借りて雨を数え、一日海を眺め、延々と歩き‥。

 金がなくなったら住み込みでバイト。
 牧場で跡取りになれと言われたり、米俵を担いだり、旅館で膳を運んだり、原発の検査の手伝いしたり‥。

 貯まったら車任せのヒッチハイク旅。
 コンボイのトラック野郎が、暴走族が、果てはバイクまでもが乗せてくれ…。
「お天道様とおまんまと人情はついて回る」
 そう実感した日々。

 浮浪者や一人旅の外人(いろんな所でいろんな国の人)とも友達に。 インドの人には、
「あなたみたいな人は、一度インドに来るといいよ」
 ‥まだ、行ってません(^^;)。

 袖擦り合う人に「面白いバンドが出たよ」とサザンのデビューを知らされたのも旅の途中でした。 私は友部正人を聞いていました。

 列島を南下し、沖縄、そして八重山諸島へ。
 そこで出会った女性と別れた日―あぁ、旅が終わったな。私はピリオドを打ちました。

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1979(s54-21歳)〔札幌〕  自己管理したい、と寮を出てアパートへ。
「100冊の本より、1日の旅」という思いは変わらねど、蓄積欲が猛然と湧き、毎月映画15本、本15冊という三昧の日々。札幌シネマラソンでは40日間ぶっ通し見続けたり…。

「隣に越してきました!」
 笑顔の輝く女の子(高卒18歳)が挨拶回りに。
 何と100曲ほども自作の曲を持つフォークのシンガー&ソングライター。
 勤めの傍ら、喫茶店でライブをやったことも。

 なんせ隣です。壁越しにコンコン。
「お兄ちゃん」と遊びに来るようになり‥ハイ、今の妻です(^^;)。

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1980(s55-22歳)〔札幌〕  理類の中の文系―ノウケイ(農経)。
 文と理の狭間で生きてきた私にはピッタリ。
 農業という視点(裏)から経済を見ることが出来たことも収穫。表経済の数字に表されない経済価値を知ったことも収穫。さらに興味は、人類学、社会学、民俗学、歴史学…そして、パラダイムの構造へ。私の理論的基盤構築の第一期がこのときでした。太田原ゼミ。お世話になりました。

 いろいろな時が過ぎ、卒業の頃、悪友仲間が賭けをしたようです。
「あいつは学生が似合う」 だからって、「あいつは、絶対就職しない」 なんて(^^;)。

 卒業の春、後輩がゼミ室に駆け込んで来ました。
「今、車で聞いていたら、中尾さん宛てに『「いちご白書」をもう一度』のリクエストがかかっていましたよ!」

 結婚披露宴準備は全て彼らに任せ(司会から何から何まで、暖かい手作り披露宴をありがとう! )、私と彼女は一路ハワイへ(なんと!商店街の福引で当たったんです。当たらなければ、貧乏2人は新婚旅行など行けませんでした。‥日程の関係で婚前旅行になりましたが(^^;))

 かくして、“既に結婚している26歳の年食った”「新人」(^^;)が、社会へ飛び出すことになります。チャンチャン。

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続きはこちらで…(お暇なときにどうぞ)

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