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【1991-2005 JR西日本事件−尼崎脱線・転覆鉄道事故より俯瞰】

12、「日勤教育」の中身

 さて、「日勤教育」の現場は次のようなものだ。
 運転士は、「管理者」7,8名がいる部屋に出社しなければならない。
 机は、その真ん中だ。

 彼は7,8名の管理者に囲まれて、自分の犯したミスを列挙して反省文を書くことを強要された。が、もとより優秀な運転士である。書く内容などない。しかし、何十も書くまで許してはくれない。トイレにも自由に行かせてもらえず、周囲を囲む管理者からは罵詈(ばり)雑言を浴びせられた。

 想像しただけで虫唾の走る図である。
 件の宗教団体となんら変わるところがない。
 いわば、そこは世間から隔絶された「サティアン」なのである。

 そして、ついに運転士はでっちあげで架空のミスとそれに対する反省文を書くことになる。その屈辱たるやいかばかりか!



 なぜ、そこまで追い込むのか。
 それは、「自己否定」させることが目的だからである。

 ではなぜそこまで徹底的に自己否定させるのか。
 それは、自己否定もろとも、「安全」に対する良心を否定させるためなのだ。

 公然とは否定できない「安全第一」という基準を否定させること。
 そのために組織がとった行動が、自己もろとも「安全第一」を否定させることだった。



 さらに、組織はそれを見せしめにも使った。
 タブーに抵触した運転士に、全運転士に対して電話をかけさせる。自分はオーバーランをしてしまいましたので、気をつけてください、みたいなことを言わせるという。
 他の運転士にしてみれば言われなくても気をつけていることをわざわざ告げられるわけだ。その行為で見られる効果とは何だろう。士気が昂揚するようなプラスの効果は何もない。あるとすれば唯一つ。脅しの効果だ。
 こんなふうにやられたんじゃたまらない。誰しもそう思うだろう。

 また、タブーに抵触した運転士をホームに立たせ、入ってくる電車、入ってくる電車に対して、自分は時間を守れなかったダメな人間であり、そのためここにこうして立たされている、というようなことを大声で言わせた(今はよく覚えていないが、人を雑巾としか思っていないかのような、ひどい言葉だった)。

 一般の人が見ている只中で自己否定させられるのである。
 言わせられた本人は、運転士としてのプライドも自信もズタズタである。ここまで自己否定させられては、その後、自信をもって運転に復帰できるはずもない。むしろ、萎縮してしまってそれがミスを誘発する可能性が高まるだけだ。
 そして、その姿を見た運転士は、あのような目には決して合いたくないと思うであろう。また、人をそのように扱うJR西日本に対して不信感を持つのではないだろうか。決して誇れる職場ではなくなってしまうことだけは確かである。

 あなたには耐えられるであろうか。
 そして、このような人間の尊厳を踏みにじる行為を許せるであろうか。



 その上、この「日勤教育」には期限がなかった。
 あるはずがない。
 完膚なきまでに叩きのめすことが目的であるからだ。

 期限があれば我慢もできよう。
 期限がないからこそ怖いのである。
 自分が節を曲げない限り、そこには無間地獄が待っている。

 ここで、運転士は自分の良心との闘いに直面させられる。
 
 「安全」をとるのか、「スピード」をとるのか。
 脳裏には、自分が責任を持って運んでいる乗客の顔が浮かぶことだろう。
 乗客を裏切ることはできない。
 しかし、裏切らなければ自分が精神的に潰される。

 凄まじいい葛藤があったと思う。

 そして、彼は運転士の誇りと矜持を持って自死の道を選んだのかもしれない。
 私は、自殺に至った運転士の気持ちを思うと不憫でならない。
 無念でならない。



 裁判長は日勤教育を「不愉快で精神的苦痛を伴うもので、2度と受けたくないと思う運転士も少なくなかったと認められる」と結論付けたが、結局「日勤教育」と運転士の自殺との因果関係を認めず、原告の請求を退けた(大阪地裁)。

 この時、「日勤教育」の事の本質を裁判長が深く洞察していれば、今日の大事故は防げたかもしれない。

 私は、裁判官になればいいのにと言われることがある。
 つくづく思うことは、裁判官は法律の前に人間の心理メカニズムを知ってほしいということだ。特に、集団の心理を扱うシステムズアプローチ(家族療法の根拠理論)を学ぶことは必須にしてほしいと願う。

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