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【1991-2005 JR西日本事件−尼崎脱線・転覆鉄道事故より俯瞰】

27、資本主義社会の中でどう生きるか

 5月6日。救急隊よりも早く救助を開始していた「日本スピンドル」という会社が脚光を浴びていた。
 土煙が上がったのを見た社員から報告を受けた社長が、社員全員を食堂に集めて救助活動を指示。即刻操業を停止して、全社員一丸となって分担して救助に当たった。

 見事なのは、指示したのは「安全第一」「人命優先」という一言のみ。
 それで、全員が動けたと言うことは、その言葉が空理空文ではなく、日常の業務の中で生きていたということである。
 日本スピンドル製造は、優先順位の第一にまごうことなく「安全」を置いていたのである。組織としてのあるべき姿がそこにはあった。



 守るべき優先順位の第一を「安全」から「スピード(効率)」に変え、その結果利益面では優良企業としてのし上がりながらも、事故に際して脆くもそのすべてを失ってしまったJR西日本。
 一方、「安全」を優先順位の第一に置き、いざという時に見事なチームワークを発揮して人命を助けた日本スピンドル製造。
 ここに最悪のモデルと最善のモデルの両方がある。

 そしてこの2者の姿は、何はさておいても利潤を追求することがよいのか、利潤を追求することが是とされる資本主義社会の中で、「利潤追求の意味」までを問うていると思う。

 不謹慎な話だが、「金があれば何でもできる」と言わんばかりのホリエモン騒動が終わった直後だっただけに、闇雲なマネーの追求は人を不幸にしかしないという警告のようにさえ思える。



 テレビの番組では、無関係の会社でありながら真っ先に救助活動を始めた日本スピンドル製造と、同じ会社でありながらボウリング大会を開催したJR西日本を対比するように取り上げていた。
 昨日書いたように、ボウリング大会は半ば“業務”だったのであろう。事故にあった当事者を勤務に復帰させたJRである。何があっても業務最優先という姿勢であったはずだ。

 しかし、同じような姿勢は大なり小なり資本主義下においてはどの会社も持っている姿勢ではないだろうか。仮に自分が営業マンであり、お客さんとの約束が迫っているときに事故直後の現場を通りかかったとして、すぐに救出に向かうだろうか。また、救出に向かうために上司に連絡したとして会社が納得するだろうか。また、お客さんが納得するだろうか。

 そういうことをシミュレーションしてみると、自分の判断だけでは行動できない不寛容の壁がどこかにあるはずである。
 優先順位の第一を「スピード(効率)」に変えたのはJRだが、そのJRを支持したのは他でもない乗客である。つまり、私たちがJRのスピードを後押ししたのである。支持を得たから、さらにJRは過密ダイヤを組んだ。……



 私たちは今、スピードにお金を払っている。
 ピザなども30分で届けます、となったり、宅急便も時間指定ができるようになった。しかし、道路や環境にアクシデントはつきものである。その都度イライラしたり無茶をしたり、スピードのウラではストレスが溜まっているのではないか。
 当初はストレスをなくすためにスピードに価値があったのであろうが、スピード競争がストレスを強いる現代、果たしてスピードに金を払う価値があるのだろうか。

 スピードが短縮される度に人から遊びや余裕が奪われていく気がする。
 遊びや余裕が奪われた環境の中で生きていくためには、相手にスピードを要求せざるを得ない。こうして、不寛容が不寛容を生み、互いが互いを急かしあい、その連鎖の中で私たちは苦しくなって必死でもがいている。それは、もはや家族間での会話さえ奪うほどに人を追いつめている。



 価値とは、共同幻想の上に成り立つ。皆が価値があると思っているから高値がつく。いい例が収集家である。マニア以外にはガラクタに見えても、それに価値があると思っているマニアの間では高値がつく。
 今、スピードにそれほどの価値があるだろうか。

 スピードを求めるために夜働かざるを得ない人もいる。夜働くために星が消える。静かな環境が消える。のんびりとたゆたう時間が消える。失われたものの方が今や貴重だ。
 スピードの呪縛から逃れた時、スピードに価値があるという共同幻想は崩壊する。

 そのためには、私たち一人ひとりがスピードにとらわれない行動をしていかなければならない。
同じ運送サービスがあった場合に、「安全」を旨とする会社と、「スピード」を旨とする会社とどちらを選ぶのか。メリハリのある選択が私たちに求められていると思う。

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