| 以下の事実関係は、京都新聞の「赤信号で走った列車―リポート・信楽高原鉄道事故の真相」の記事を参考にしています。 |
| もう一つ、国に、というか、私たちみんなが考えなければならないことが提示されていると思います。それは、社会的インフラのあり方についての問題です。 国鉄が民営化されて利益優先で突っ走った結果、事故が起きた。と、短絡的に言うつもりはありません。 しかし、国鉄民営化後わずか4年後にして起こった信楽高原鉄道事故。 先に書いたとおり、それは利益のために不採算部門として切り離された信楽高原鉄道と、利益のために不合理を押しつけたJR西日本との正面衝突の事故でした。 不謹慎ですが、この事故に民営化の是非が象徴的に現れている気がするのです。 一九九一年五月十四日。走っている筈がない下り列車が信楽駅方向に向かっていることを示す表示灯が制御盤で点灯しているのを見て、信号設備工事会社から派遣されていたY氏を呼びに行ったとき、Y氏は臨時集札所で乗客の切符を集める手伝いをしていた(!)そうです。しかも、Y氏は信号設備の専門家ではありませんでした。 ここに2つの問題が見えます。 一つは、信号設備工事の人までも狩り出さなければならない人手不足であったこと。 不採算路線として切り離され、それでも地域の足として運営を続けるために人手が大幅にカットされたことがその背景としてあります。 もう一つは、安全を守るための専門家が充員されなかったこと。 ここに、コストカットのために何が犠牲にされたかが如実に現れています。 ある問題について「組織が責任を果たす」ということは、その問題についての専任者を置くということです。安全について専任者がいないということは、安全に対して責任を果たすつもりがないということです。 『増員もされず、信号の専門家が補充されることもなく、社内には信号システムのことをちゃんと理解できている人はだれ一人いないような状態でした』という裁判所への証言でもその状況が裏づけられます。 さて、信号が通常でない表示をしていた場合、行き違い場所の無人駅(小野谷信号所)に職員を派遣して対向列車がないことを確めた後、発車させなければならないことになっていました。この時も職員が車で小野谷信号所に向かおうとしますが、陶芸祭人気で国道が渋滞して進めず駅に戻っています。しかし戻った時、列車はすでに見切り発車していました。 ところで、この無人駅は四月二十日からの世界陶芸祭の開催に伴い、輸送力アップに対応するために新設されたものでした。それまで、信楽駅から貴生川駅まで一日に十五・五往復だったのを二十六往復(!)に増便するために、行き違い待機場所として設置されたのです。 設置した時、貴生川駅で草津線から高原鉄道に乗り入れるJRは、その下り列車の遅れが生じた場合に下りの走行を優先させるため、小野谷信号場の上り信号を赤にし続けて上り列車を足止めにしようと考えました。しかも、それをJR側で操作したいと考えていました。 その打ち合わせの際、『高原鉄道の下請け設計会社の部長は「小野谷信号場は高原鉄道の設備なので、JRさんが扱うのはおかしいんとちがいますか」と言った』そうです。“下請け設計会社”の方が主張したにもかかわらず、『信号に詳しくない信楽高原鉄道の二人の課長からはあまり発言がなかった』ということからも、“力関係”がよく見えます。 その後、高原鉄道側が出した案をJR側が遠隔操作できるように勝手に変えました。裁判では、その変えたことを「言った」「言わない」の論争になっています。 また、『陶芸祭直前の九一年三月、信号システムの説明会が、二回にわたり信楽駅で行われた』ようですが、信号設備工事会社から派遣されていたY氏を含めて専門家がいない高原鉄道側に、そのシステムの内容を理解した人はいなかったようです。 以上、見てきただけでも、経済性優先(効率優先+コスト削減)かつ安全軽視の流れで物事が推し進められていることがわかります。 最も重要な安全面のシステムを理解しないままに大量輸送が開始されたわけです。ここに、事故の芽は蒔かれました。 そして、五月三日に信楽駅の上り出発信号が赤から青に変わらないにもかかわらず、見切り発車する“事件”が発生します。 『駅長役を務めた運転主任は』中村業務課長(5/14の事故で死亡)に『「怒鳴られ、従わざるをえない状況に追い込まれました。それ以上言えなかった」』と証言。 この時、「誤出発検知装置」が作動し、JRからの下り列車は小野谷信号場で足止めされて事故は回避されました。 これがサインでした。この時徹底して事件の原因を追究していれば、事故は回避されたでしょう。 組織というものは、それぞれの役割を責任を持って分担するからこそ機能するわけです。安全担当の責任者がいれば、中村課長とバトルをしてでも、出発させなかったこともありえたでしょう。 しかし、全体を把握できるマネージャーは不在、安全担当も不在、そして高原鉄道の運営を実質切り盛りしていた中村業務課長は、旧国鉄で運転の助役であり、運行という自分の使命以外に注意が向かなかったのです。そのことが安全無視の見切り発車につながってしまったのです。 そして五月十四日を迎えます。この日、『高原鉄道列車は予定より出発時間が約十一分遅れて』いました。運行担当の中村課長の頭には、この遅れを取り戻すことがプレッシャーとしてあったことでしょう。また、五月三日に事なきを得たことも背を押したかもしれません。亡くなられて実態は分りませんが、結局五月三日と同様に見切り発車し、そして下り列車と正面衝突したのです。(続く) |
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