| 事故というものは、三重、四重の防止策がすべて機能しなかった時に起こります。 信楽高原鉄道事故は、どのような安全対策が外されていった結果起こったのかをよく現しています。 1.安全責任者を外したこと(コストカットのために) 2.その後の増発にも関わらず要員補充をしなかったこと(コスト増を避けるために) 3.高原鉄道側の安全設備が、JRの都合でJRに乗っ取られたこと(効率のために) 4.全体を統括できる責任者がいなかったこと(組織原理の無視) システムを支えるのは人です。それぞれの持ち場に責任ある担当者を配置することによってシステムは安全に滞りなく機能するわけです。上記を見ると、責任ある人がどんどん外され、最低限運行に必要な責任者だけしか残されていないことがわかります。つまり、事故は起こるべくして起こったわけです。 言い換えると、大量輸送路線であれ不採算路線であれ、それを動かすには最低限必要な要員というものがあるということです。採算に合わないからと言って必要な人員まで削減すると事故につながるのは理の当然でした。 私たち皆が考えなければいけない事は、「安全」を守るためには人(責任者)を置く必要がある=コストがかかると言うことです。それは、命を守るために払うお金ですから安いものです。 ところが、不採算路線として切り離された高原鉄道は、存続のために人員を削減せざるを得ませんでした。そして、運行に関わる以外の人員が削減された結果、起こるべくして事故は起こったと言うことができると思います。 私は小学校時代に住んでいたところは、当時国鉄が走っていました。しかし、30数年ぶりに訪れたとき、私はショックを受けました。そこには、積み重なった歴史ではなく、何の新陳代謝も行われないままにただ風化していった30数年もの歳月が刻まれていました。 人は歩いておらず、昔懐かしい臭気抜きの煙突が斜めに突き出ている家々。まだ汲み取り式のトイレなのです(それはそれで、エネルギー循環の観点から見るといいのですが…)。まっすぐな直線で構成されていない、ツタに覆われた家もあります。しかも、何と人が住んでいるのです。 どんどん古びていく町という器。若い人は町を捨て、昔ながらの人もどんどん変わっていき、残された老人にとっては孤独で住みにくい町になっていました。 私の古い知人のご両親は今や老夫婦2人で過ごしており、ご主人は遠路バスを使ってシティにまで趣味のダンスに出かけて行きますが、足の悪いご婦人の方は、唯一昔なじみのおばあちゃんのところへお茶のみに行くのが日課となっています。その面影には孤独と諦めが同居していました。 その匂いをかぎつけたか、最近は新興宗教の若い勧誘者が出歩き孤独な老人をくいものにしているようです。私も、通りを歩いている時そのような人間に間違われただろうなぁ、と話を聞きながらふと思いました。 空き巣も出るようになり外出するときカギをかけるようになったと言います。 うらさびれ、朽ちていく町− これが、民営化の「結果」でした。 鉄道は、いわば血管です。人はその中を流れる赤血球です。その血管が途切れ、血液が流れなくなった時、細胞(町)が壊死を起こすのは当然でした。 交通・通信網は生活のライフラインです。 それは、安全を確保し安心を提供するものです。身分、地域の区別なく、日本に生まれて日本に住む人であれば誰もが利用する権利があり、また国は提供する義務があるものではないでしょうか。私たちがせっせと働いて国に提供している“税金”は、そのためにこそ使われるべきではないでしょうか。 国が国民を守る義務があるのであれば、最低限のライフラインの確保は国がやるべきことだと思うのです。そして、人が多く住む都会においては、私鉄に任せればいいのです。 国鉄に払うお金は、ライフライン確保のための「安全と安心」料。 私鉄に払うお金は、スピードなどの付加価値料金。 そのように、私たちは自分がこのお金をどんな価値に対して支払っているのか、その意味をしっかりと把握すべき時に来ています。 |
| 【戻る】 |