ガ
イア
か
らの
自律


■“開発”の意味を問い直そう(続々)

 インディアンやブッシュマンやアイヌ、また昔の日本人などの「民族の知恵」に学びましょうという話をしました。

 ちなみに。人間の脳の働き方は西洋と東洋で異なります。

日本人の脳は、虫の声など自然の音を音としてではなく「声」として聞きます。
西洋人の脳は、音としてしか聞けません。

 日本人は人間の声を聞く中枢で自然の音も聞いているのに対し、西洋人は音を聞く中枢で自然の音を処理しています。



 恐らく、「甘え」の構造ができるくらいに自然が人に優しい日本では、自然を敵対視する必要がなく、むしろ細やかな四季の移ろいに人間の感性に近しいものを感じたのでしょう。
 自然からもいろいろと読み取ろうとしたのではないでしょうか。
 その姿勢が脳の働き方を変えたのだと思います。

 キリスト教やイスラム教などの一神教は砂漠から生まれています。
 砂漠は生かされるか殺されるかで、日本の四季の移ろいのような細やかなものはないように思います。
 砂塵や風の音は人を脅かす単なる“音”だったのでしょう。

 そういう西洋が、言葉を持つことを人間の優位性と見たわけです。

日本人からすれば、自然も言葉を持っています。
言葉を持つことが人間の優位性にはなりえない訳です。
人間と自然は対等です。

 人間と自然を分ける必要がありませんから、輪廻転生の思想なども生まれます。
 人間と自然が断絶している西洋には生まれ得ない思想です。

 人間と自然を分ける必要がないと同様、男と女を分ける必要もありませんでした。
 まして、農耕民族。田植えは男女協働です。
 狩猟民族のように男が外へ出て働くというわけではありません。
 日本では、ことさらに女性を劣位に見る思想も、逆にわざわざ「レディーファースト」にする思想も基本的にはなかったと考えていいと思います。

 また、「借景」といって家の壁に穴をくりぬき、外の自然をあたかも風景画のように取り込む建築感覚から「プライバシー」の概念は生まれません。雨露をしのげさえすれば必要以上に自然から人間を隔離し守る必要がないのです。

 「起きて半畳、寝て一畳」―これが家の感覚です。
 自然の中が本来の居場所ですから。

 西洋のように自然から隔離した中でヒトが動き回る空間を確保するために家を大きくする意味がありません。それがどんなに大きくとも、所詮自然の広さには叶わないのです。



 この辺でやめておきますが、こうしてみると、日本は優れたアナログ文化を持っていました。
 それは、生態系と共にある文明です。

 明治以降、派手な西洋文明に目を奪われましたが、和洋折衷を知った今、日本は今までの世界史に登場していない、生態系と共にある文明のあり方を提示しなければならない国ではないかと思っています。

(続く)


【戻る】



開放 循環 がキーワード
戻る 続きへ